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第10回 射撃選手 松田知幸さん 1

国際射撃連盟(ISSF)のワールドカップ(W杯)シドニー大会が、3月22日から4月1日の日程のもとシドニーの国際射撃センターで開かれた。W杯は、ISSFが主催するイベントでオリンピックや世界選手権に次ぐ主要な国際大会と位置づけられているが、このシドニー大会で日本のエース松田知幸さん(神奈川県警)が男子10mエアピストルと50mピストルで優勝する快挙を成し遂げた。昨年のISSF世界選手権でも両種目優勝し史上初となる世界選手権2冠を達成したほか、日本人では2012年ロンドン五輪の代表内定第一号となった。3月11日に東北・関東地方を襲った大震災時は、12・13日の日程で行われる予定だった全日本選手権に出場するために試合会場の宮城県石巻市におり、松田さん自身も被災した。以後、多くのスポーツ行事がキャンセルとなり、選手たちも活動を自粛。それに加え、警察官という職業柄、震災直後の海外試合出場には大きな戸惑いがあったという。いつもとは異なるプレッシャーがかかる中、シドニーの地で見事2冠を達成した松田選手に、被災時のことや今大会での二冠の感想、ロンドン五輪に向けた思いを語っていただいた。

取材・文・写真:飯田裕子

射撃を始めたきっかけを教えてください。

平成6年に警察学校で、警官としての授業の一環で始めました。やっているうちに当時の監督に勧められ、選抜されました。

昨年の世界選手権で史上初の2種目制覇を達成し、日本人ではロンドン五輪内定第一号になりました。この時の感想をお聞かせください。

(2種目制覇は)嬉しいよりも驚きの方が大きかったですね、狙っていなかったので。決勝に行って、オリンピック出場枠が取れればいいなと思っていました。この出場枠を取るために調整して、試合に臨んでいました。予選途中から決勝進出できる点数を取れているのは分かっていましたが、出場枠を取りたくて1点でも多く取ろう、みたいな感じで撃っていたらトップになっていたので、そのままの流れで行けました。点数的には予選終わって572点でしたがが、やはり570点台を取っておかないとメダル圏内には入ってこないと思ってやっていました。そしたら570点台が私一人だったので、「あれっ?」という感じでした。 50mピストルで出場枠を取れたので、続く10mエアピストルは楽に撃てました。何も緊張もしていなかったですし、(出場枠を確保した後とあり)もうどうでもよかったですから。 この二冠は「運」です。私はほかの選手に比べたら、オリンピックで勝っているわけでもないし、経験もないのです。経験がない上で勝てたという分はあると思います。経験があればそれだけプレッシャーもかかりますからね。

日本で内定第一号として早くに五輪出場権を決められました。これはロンドン五輪に向けて良かったのでしょうか、それともかえって精神的な重荷になったのでしょうか?

この点ではあまり、感じるものはありません。(代表を決めていない選手は)大変だなとは思いますし、自分は既に取っているので、やはり少し余裕があるのかなと感じます。ただ、試合において「じゃあ緊張していないか?」と聞かれると、そうでもないので、自分の中ではあまり変わらないような気もします。 W杯に出ればよりプレッシャーがかかるので、(内定した後もすべてのW杯に)出ます。試合に出なければ変な意味楽で、自分のペースでやっていけるのですが、まだ「その時」ではない気がするんです。(『その時』とはピークという意味ですか?)そうですね。まだ五輪は1年後なので。今はもっともっと自分を痛めつけて、よりプレッシャーをかけた方がいいのではないかと思います。 自分はまだまだの選手と思っています。世界選手権を取ったと言ってもそれ一回なので、常連でも決してないと思っています。だから皆さんが注目してくれていると思います、逆に。常に勝っていたら「また勝った」といったように思われると思いますが、自分の場合はポーンと勝ってしまったので、その分注目してもらっていると思います。それをうまく活用しないと損だと思うので、ことしのW杯も4試合全部に出場し、より注目してもらえばよりプレッシャーがかかるので、その中で撃っていくべきだと思っています。まだまだプレッシャーが足りない、もっとプレッシャーかけていかないと本番の五輪では勝てません。

試合中、休憩をとって椅子に座り、ノートに書き込んでいるようですが、何を書いているのですか?

良かったこととか悪かったところとか、気になっていることをノートに書き込んでいます。たいがい悪い方が目立つので、それを書いて、自分の中でこうしなければいけないというのをもう一度リセットして、次の形がいい形になっていきます。あとは良かったことを書いて、また次もいいイメージでという具合に進めます。

3月11日に東日本を襲った大震災時には、射撃の試合に出場するため、宮城の石巻にいらっしゃったと伺いました。実際に被災された当時の様子をお聞かせください。

私は試合会場で練習していましたが、その練習中に地震が起きました。携帯電話などが不通となり、情報がまったく取れなくなってしまいました。頼りはラジオだけでした。ラジオで聞く限りではイメージがわかなくて…。ラジオでしきりに『車が流されている』とか、『おうちが流されています』とか言っていましたが、耳に入ってきてもわからないというか、それほどの恐怖を感じませんでした。みんな一緒にいて一人ではなかったので、そういう意味ではそれほど恐怖心はなかったです。 避難所となった老人ホームで一晩過ごして、そこからレンタカーで移動して宇都宮までなんとかたどりつき、宇都宮でやっと一晩普通の状態というか、電気も水道もあり、ごはんも食べれてお風呂も入れるホテルにチェックインしました。そこで初めてテレビをつけたら目に映像が入ってきたんです。ものすごい恐怖を感じて、その晩から数日間はやはり眠れなかったです、怖くて。余震もありましたし。 携帯の充電がもうない状態だったので、家族にはとりあえず、「今移動しているから大丈夫。心配するな」と安否確認だけ連絡して、後は緊急時のために電源は切っているような感じでした。ホテルについてやっとゆっくりして電話でき、「大丈夫だよ」と伝えました。

日本が大震災で混乱していることで、今回のW杯の辞退を考えたことはありますか?

正直、自分の中ではありました。精神的な部分もありますし、家族の心配もありましたので。ただ職場の方から、「こんな時だからこそ日本の代表で頑張ってこい。行ってきていいぞ」と許可をいただきました。仕事として、現地(被災地)に派遣される警察官もいる中で、自分がやれることといったらこれぐらいしかないな、と、思わされました。プレッシャーにはなりますけど、そのプレッシャーの中で勝たなければいけないので、そう思いながらやっていました。

日本では50mの射場が数少ないため、通常でもあまり50mを練習していないとのことですが、大切な試合の前に地震による影響も更にあったのではないでしょうか?

普段は10mエアピストル用の射場で練習しながら、50mをイメージしてやっています。合宿では50mを撃っていますのでまったく撃っていないわけではありませんが、世界のトップ選手たちと比べたらちょっと違う環境ですし、日本人選手の中でも50mで撃つのは少ない方だと思います。でもハンディーはあまり感じません、勝っているという事実があるので。 アジア大会(11月広州・中国)の後はことし2月に警察の合宿がありました。朝霞で全国冬季射撃ピストル競技大会というのがあり、この試合に向けた合宿でした。試合も含めて2週間ぐらい撃ちました。50mでの練習はこれでおしまいです。(他国のトップ選手は連日撃ちこんでいるなか、練習少なくて不安になりませんか?)でももうこのスタイルができあがっていますから。練習ができればそれに越したことはないと思いますけど、まぁ、与えられた環境でやるだけなので、特にそれに対して何も(引け目を感じることは)ないです。このW杯の前に合宿が本来組まれていたので、ちょっと調整して、というスケジュールではいましたが、それも地震の関係でキャンセルし、この本番に臨むことになりました。私の場合、練習はほとんどイメージと空撃ち(銃弾を込めないで撃つ)で、実射的なものはそんなにやっていません。エアピストルも同じです。

逆境を乗り越えられ、W杯シドニー大会で見事二冠(10mエアピストル・50mピストル)を達成されました。厳しい立場に置かれた中で、この素晴らしいパフォーマンスができた理由は何でしょうか?

地震から逆の影響を受けたと思います。私以上に大変な思いをして生活している人がいて、私も家族を(日本に)残してきているし、職場的にもこの忙しい時期に射撃の試合に出させてもらったということで、プレッシャーがありましたが、それ以上に『やらなければならない』という責任感がより生まれて、こういう結果が出たのかなと思います。

 

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