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バサースト市在住 リーキー筆子氏が旭日単光章を受章

 

日本政府は、4月29日(月)、平成25年春の叙勲で、NSW州バサースト市在住のリーキー筆子氏に対し、同氏の日豪二国間関係の発展における継続的かつ顕著な功績を認め、「旭日単光章」を授与することを発表した。

旭日単光章は、学術、経済、文化及び国際関係等の分野で功績を残した者に授与される。

 

  同氏は1963年に来豪し、一時期をパプアニューギニアで過ごしたこともあったが、1975年からシドニーから約200km西にあるバサースト市オールセインツカレッジにて35年間日本語教師として勤務し、日本語学習者のための教科書の著者としても知られる。日本語教育だけでなく、日豪間の学生交流活動にも尽力し、1990年から続くバサースト市と福島県大熊町の姉妹都市交流にも中心的な存在として、両市の市民交流を草の根で支えてきた。

 

平成25年春の叙勲で「旭日単光章」を受賞したリーキー筆子氏

 

 

“他の国のことを知れば平和の一歩につながる” 

もともと日本で英語教師としての訓練を受けていたリーキー氏が、留学中に滞在していたカナダで小学校の社会科の先生として教鞭を執ったのが教師生活の始まり。見よう見まねで茶道や華道のデモンストレーションをしているうちに、「他の国のことを知れば平和の一歩につながる」という熱い思いが生まれた。日本を知ってもらうためには、自分自身がもっと日本の文化を知りたいと感じるようになったそうだ。

カナダから50年ほど前にキャンベラ移り住み、一時期をパプアニューギニアで過ごした後、1975年からバサースト市オールセインツカレッジにて日本語教師としてのキャリアをスタートさせた。

 

“日本語学習者のための教科書を執筆”

リーキー氏が日本語教師として働き始めた当時は、日本語学習者のための教科書はあまりなく、自身で作成したテキストを使っていた。どうやったら日本語に興味を持ってもらえるか、教える方法もずいぶん工夫した。NSW州の“シラバス”(教育過程や到達目標を示した教育指導要領)が変わったことで、“シラバス”に沿った教科書が必要になり、知人に請われる形で教科書の執筆を始めた。日本語の書籍を出版する出版社がなかった当時、自分でコンピュータを習い、1ページずつ自分で編集した。参考になる教科書はなく、すべてを自分の考えで書かなければならず、相談相手もいない。孤独感と締切に追われた日々。描き上げた後は、決まって「これ以上、教科書は作らない!!」と思うのだが、他の人に頼まれるとやってしまうという。そうして作られた教科書は、何度か改訂を重ね、今でもニューサウスウェールズ州をはじめ、オーストラリア各地で使われている。何年経っても、使われ続けているというのが、そのクオリティの高さを物語っている。

 

“日本に興味をもってもらうために”

教師として、勉強をしたくない子供に教えることはもっとも大変なことだったそうだ。必須科目で選択の余地なく日本語を勉強しなければならない学生の中には学習意欲が低い学生もいる。このような学生に興味を持たせるために、“楽しい授業”を心がけた。けん玉、お手玉、ビデオ…まずは日本の文化を教え、興味が湧くように工夫した。特に、受け身になりがちなビデオ鑑賞だけでなく、体を使った剣道も教えた。じつは彼女自身が、日本でも剣道、茶道、華道、書道の心得があり、日本文化を教えるという点で事欠かないほど特技があるのだ。そんな先生だからこそ、多くの学生が慕ってきた。今でも街を歩いていると、「Hello, Mrs Reekie」と声をかけられ、そこから、近況を話したりするのも教師の醍醐味だそうだ。

 

“リーキー氏の功績を讃えて”

以前は教室から教室を移動して、教えていたが、図書やその他の設備を調えた教室があれば…と考えるようになった。大阪万博基金から資金の援助を受け、1992年、オールセインツカレッジ内に“日本語センター”が作られた。教室、読書室、スタッフルーム、日本庭園もあり、勉強しながら日本の文化を学べる。この日本語センターが2009年にオールセインツカレッジを退職したリーキー氏の功績を讃え、“Fudeko Reekie Language”へと改名した。「この時のことが今でも心に残っている」と当時の感動を表現した。

 

“震災後も続く福島県大熊町との交流”

福島第一原子力発電所(東京電力)の1号機から4号機の所在地である大熊町(現在、行政機能は会津若松に移転)と1991年に姉妹都市を提携しているバサースト市。姉妹都市提携の際にも尽力した。東日本大震災後には募金活動を行い、7万ドル以上の義援金をバサーストから送り、翌年(2012年)には訪問団がお礼を兼ねてバサーストを訪れた。リーキー氏は国際交流の意義を「自分の目で他の国を見ることが大切。若い人が感激し、今でも交流が続いているのがうれしい」と話す。

 

“今でも夢のよう。本当に受賞できるとは思っていなかった”

「人の見えないところでコツコツ努力をしてきた人」とリーキー氏を表するのは彼女と43年来の親交がある、推薦者の母袋陽介氏。教育を主体に日豪交流に力を注いできたリーキー氏の数少ない日本人の相談相手のひとりである。温厚でおおらかな印象のリーキー氏なのだか、母袋氏によれば「先生としては厳しい面もあったが、生徒がよく話を聞いていた」とも語ってくれた。そんな母袋氏の推薦も功を奏し、今回の受賞に至った。リーキー氏は「今でも夢のよう。本当に受賞できるとは思っていなかった」と受賞の喜びを話した。

 

 

 

(写真左)リーキー筆子氏(写真右)推薦者の母袋陽介氏

 

 

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