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ショービズの世界で幅広く活躍する橋本邦彦氏の、たったひとつのシンプルな心掛け(俳優/ボイス・オーバー)

俳優とボイス・オーバーをメインに、ミュージカルの翻訳や声優、テレビ局のキャスター・プロデューサー、脚本家、イベント司会と、ショービズの世界で幅広く活動する橋本邦彦さん。浮き沈みの激しい業界で30年以上も活躍し続けられている背景には、たったひとつのシンプルな心掛けがあった。

 

社会人のスタートは“普通のサラリーマン”だった

今でこそオーストラリアで俳優やボイス・オーバーの仕事をしていますが、大学卒業後は東京の損害保険会社で働く普通のサラリーマンでした。学生時代から演劇をやっていたけれど、そのまま演技の道に進んで食べていけるか不安だったんです。

転機となったのは、社会人6、7年目のころに浮上した地方転勤です。東京にいれば好きな舞台がいつでも見られるけど、地方だとそうはいかない。まいったな、と思っていたときに劇団四季の30周年記念オーディションがあって、運良く合格しました。

劇団四季からきちんとした給料をもらえましたが、リスクヘッジとして同時期に友達と編集プロダクションを立ち上げ、ジャーナリストの仕事もスタートしました。書く仕事が自分にできるかなんて分からなかったけど、友達が才能あるからってすすめてくれて。マガジンハウスや婦人画報といった、いい会社と仕事ができました。

 

独学で英語を覚えられたのは「モノマネ上手」だったから

劇団四季は4年で離れました。ジャーナリストとして英語でインタビューをしていたツテで、ルーブル美術館のインテリアデザインをした建築家ジャン=ミシェル・ヴィルモットや音楽家レナード・バーンスタインのレップ(代理人)の仕事が入るようになったんです。彼らの活動拠点であるパリやニューヨークに行くようになって忙しくなったので、自分の会社の仕事に専念するようになりました。

英語はまったくの独学です。僕はモノマネが上手なので、文法さえ覚えれば話せるんですよ。例えばCMの仕事でイタリアに行ったときに周りの人のイタリア語をマネしていたら、エキストラの人がイタリア語でバンバン話し掛けてくる(笑)。発音がマネできるから、それっぽく聞こえるみたいですね。

 

1~2年のつもりだったオーストラリアで永住権を取得

オーストラリアに来たのは1989年、日本でフリーランスとして6、7年活動した後のことです。ニュージーランドの旅行会社のコピーを書いたときに、そこの社長から「オーストラリアで仕事があるけど来ないか」という話をもらったのがきっかけです。同じ時期にマガジンハウス社から特派員の仕事もいただきました。

それで1、2年行ってみてもいいかな、という気持ちで来豪しましたが、2年経ってビザが切れるころに永住権を取りました。インターネットが発達したおかげでこっちに住んでいても日本の仕事ができるようになったし、なによりオーストラリアは居心地が良かった。Laid Back(のんびりした)な雰囲気で、シドニーみたいな大きい都市だと、半分リゾートで半分アーバンっていうバランスがちょうどいいんです。

僕はニューヨークが大好きなんですが、オーストラリアに住むようになってからニューヨークに行ったら、なんだか疲れたんですよ。日本にいたころはそんな風に思わなかったけど、高いビルがたくさん並ぶああいう空間は人間にとって精神的に良くないのかも、と思うようになりました。

こっちには俳優としての才能があっても貧乏な人がたくさんいるけど、「好きなことをやっているからそれでもいい」という考え方で、アメリカの“Looser or Winner”の競争社会とはずいぶん違います。フランスは芸術を評価してくれる国だけど、フランス語が話せないと難しいし、イギリスは閉鎖的。いろいろな国柄があるなかで、変な言い方だけどオーストラリアは大雑把だと思いますね。

一方の日本は敬語が疲れます。僕は開けっ広げな性格だし、言いたいことははっきり言うタイプなんです。でも日本だとイエス・ノーがはっきり言えないし、言い方を遠回しにしないといけない。そういう感覚も敬語の使い方も、こっちに住んで忘れつつあります。

 

文化面では「井の中の蛙っぽい」オーストラリア


日産パルサー『More』TVCMより(Revolver社提供)

 

オーストラリアの欠点を挙げれば……、文化的な面で少し遅れているところでしょうか。こっちの舞台や美術館で100%の満足感や充実感を味わったことはあまりないです。活躍するアーティストにしても、この人は“オーストラリアだから”有名になったんだろうと思うことも正直あります。

遅れている理由は、オーストラリアに世界を代表する劇団やオーケストラが来る機会が少ないからじゃないかな。日本だと年に何度も一流の演劇や音楽、ファッションに触れる機会があるけど、こっちではこの間ようやくベルリンフィルやウィーンフィルが来たくらい。だから目が肥えていないんです。そして自国の作品に対しても評価が甘いから、劇評を読んで期待して観劇するとがっかりすることが多い。でもそうして保護しないと自国の文化が育たないんです。ですから仕方のない部分もありますね。

とは言っても、100%素晴らしくないけど50:50(フィフティーフィフティー)で満足できるっていうのがシドニーの良いところです。バリ島やハワイみたいに完璧なリゾートではないけど、ビーチが近くてそこそこのリゾート気分を味わえ、ニューヨークや東京みたいにレベルの高い舞台はないけど、オペラハウスでオペラ鑑賞ができ、東京やパリみたいにすごいレストランはないけど、きちんとおいしい料理を出すお店はある。リゾートとシティライフの両方を満喫できるのは魅力ですよね。

 

チャンスに恵まれて、気がつけばここまで来ていた

これまでさまざまな仕事をしてきましたが、じつは自分から望んでつかんだものはないんです。

「人生は予測できないし、してはいけない」

これは33、34歳のころにインタビューした岩波ホール創立者の高野悦子さんの言葉です。彼女はフランスで映画監督を目指したものの断念し、帰国後に岩波ホールの支配人として自分の目利きで素晴らしい映画を発掘した人。キッパリと言い切ったそのときの彼女は、凜としてとても美しかった。なんだか輝いて見えて、「ああそうなんだな」と、すごく腑に落ちました。

僕の人生も、予測して切り開いてきた人生ではないんです。ボイス・オーバーもジャーナリストの仕事も、人から「やってみれば?」と言われて始めたし、劇団四季も研究生から所属していたわけではない。偶然チャンスに恵まれて、知らないうちにここまで来た、という感覚です。だから「予測できない」というのはモットーというか、人生ってそういうものなんだと思いますね。

 

もらった仕事にベストを尽くせば、次の仕事につながっていく


出演映画、ボイス・オーバー番組のDVD、翻訳した舞台のパンフレットや台本

 

仕事をする上で心掛けているのは、妥協しないでベストを尽くすこと。プロとして受ける仕事であっても、無償のボランティアであっても、舞い込んできた仕事は全力でやる。そうしないと気持ちが悪いんです。

そうして一生懸命やっていることが評価につながって、いろいろな仕事に派生していきました。例えばミュージカルの翻訳は、レナード・バーンスタインのレップをやっていたときに、彼のマネージャーからミュージカル『キャンディード』の翻訳を頼まれたことが最初のきっかけでした。4カ月間うんうん悩んで台本と歌詞を訳したら、その舞台を見た宮本亜門さんから『太平洋序曲』の翻訳を依頼されて、今度はその舞台を見たスティーヴン・ソンドハイムが「これをニューヨークで上演してほしい」と言ってくれた。もう感激しちゃって、スタッフみんなでワーワー言いながらアメリカへ渡って上演したら、その舞台も大成功。こうして、ミュージカルの仕事がくるようになりました。

サラリーマン時代もみんなより1時間早く出勤して仕事をして、自分で言うのもなんですが、上司からの評価は高かったですよ。「いまやっていることがつまらないからいい加減にやる」というのではなく、もらった仕事にベストを尽くすことが大事。そうすれば、次につながるはずです。

 

「ベストを尽くす」とは、自分の成果を求めることではない

ベストを尽くすにはケンカもします。特にショービズの世界は、たくさんの人のさまざまな意見が飛び交いますから、いいものを作り上げていくためには自分の意見を言わないといけません。ケンカして、自分の悪いところは認めて変えていく。その繰り返しです。

他の人が手掛けたボイス・オーバーの翻訳を直したときに、「誰だって自分がやった仕事を直されるのは嫌でしょう?」と言われたことがあるんです。でも僕はそんな風に思ったことは一度もない。みんなで作品を作っているんだから、僕の仕事に対して直しが入るのは当然のことでしょう。修正を求める相手の理由を理解して、すり合わせて、いいものをみんなで作っていくという気持ちが大切です。「自分が、自分が」という気持ちでいたら、いいものは決してできません。

目の前の仕事をより良くするために何が必要で、そのための自分の役割が何かを考え、役割に対して全力で取り組むことが、「ベストを尽くす」ということ。その結果、チームとしての成果が出せるのが、僕が考えるいい仕事です。

 

欠点は「挫折の経験がない」こと

こんな考え方なので、僕は自分の名前が出なくても自分が関わった仕事がうまくいけば満足しちゃうんです。

これまでの人生でいろいろな人を見てきて、トップになった人には、挫折した経験をバネにしたり、人を蹴落としてでものし上がるみたいなハングリー精神があるんですよね。でも僕にはそういう気持ちがないし、トップに立ちたいと思ったこともなくて、ほどほどの人生を楽に生きている。欲がなくて、やりたいことやなりたい姿はあるけど、「この舞台に絶対立ちたい!」みたいな目標があまりないんです。だから、挫折をしたこともない。そりゃあ失敗したことはあるけれど、挫折するような大失敗の経験がないんです。これが僕の一番の欠点ですね。だから自分は大成しなかったんだなぁ、なんて今さらながら思いますよ。挫折したことのある人が羨ましいです。

 

ずっと変わらないのは「いい仕事をしたい」という思い


日産パルサー『More』TVCMより(Revolver社提供)

 

最近は役者とボイス・オーバーの仕事をメインに活動していて、あとはボランティアで『声』という朗読の会で指導をしています。いろいろな違った声があって、なかにはヘタだけど味がある“ヘタウマ”な人もいる。これは僕には絶対にマネできないなぁ、と新しい発見があって、教える僕にとってもいい勉強になっています。

あとは戯曲を書いていて、『Far From Cowra』という作品が昨年、オーストラリア作家協会の戯曲部門でナショナル文学賞を受賞しました。うれしかったですね。日本人が出てくる戯曲は少ないから、日本人が出るものを作りたかったんです。舞台の実現はまだですが、これからも書き続けたいですね。

両親も高齢だし、今後は日本に戻る可能性もありますが、オーストラリアの方が居心地はいいです。日本の映画界は、照明さんが食べるまで俳優はご飯を食べてはいけないとか、昔からのしきたりが多い。大スターにも気を使わなきゃいけないしね。こっちではアンジェリーナ・ジョリーだってみんなといっしょにご飯を食べる。それに同じ部屋でメイクしても文句を言いません。「日本には老けた俳優が少ないから、戻ったら売れるかもよ」なんて言われますけどね(笑)。

今年もまた、写真家の人生を描いた『村上安吉 Through Distance Lenses』という芝居をやりました。

 


舞台『村上安吉』(Daily Mirror社提供)

 

そのなかに「It is possible to contribute without recognition.=自分の名前が出なくても、社会に貢献できるんだよ」というセリフがあります。僕自身もそういう気持ちが根底にあって、有名になりたいという思いはあまりない。先のことは予測できないけど、とにかくいい仕事がしたい。これだけは、ずっと変わらないです。

 

橋本邦彦 (Kuni Hashimoto)

劇団四季に所属し俳優として活動の後、フリーのジャーナリストに転向。1989年、シドニーに移り、俳優、ボイス・オーバー、声優、テレビ局のキャスターやプロデューサー、脚本家、マガジンハウス社の特派員などで活躍。日本で上演された『キャンディード』『太平洋序曲』『イントゥ・ザ・ウッズ』『スゥイニー・トッド』などのミュージカルでは台本・歌詞の翻訳を手掛ける。シドニー在住後も日本の舞台に立つが、シドニーでは舞台『太平洋序曲』『村上安吉 Through Distance Lenses』で主役を務め、出演映画には『ミュリエルの結婚』『不屈の男アンブロークン』『プリデスティネーション』などがある。またカンタス航空機内の日本ポップス番組のDJを25年務めた。2015年に書いた戯曲『Far From Cowra』で、オーストラリア作家協会のナショナル文学賞(戯曲部門)を受賞。

 

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