「生きるために働くことが、国や社会の役に立つ」40年間オーストラリアで日本食普及に貢献してきた舟山精二郎氏の仕事哲学/東京マート・ジュンパシフィック創業者

日本食品店の「東京マート」と「フジマート」を運営する食品商社「ジュンパシフィック」の創業者・舟山精二郎さんは、商社マンとしてオーストラリアに渡り、日本人として初めて永住権を取得。45歳で東京マートをオープンして以来、40年に渡って日本食の普及に貢献してきた。その功績が認められ、 2013 年にはオーストラリア政府より、オーストラリアに貢献した移民の経営者に与えられる「エスニック・アワード」を受賞し、また2016年には日本の農林水産省から「日本食海外普及功労者」として表彰を受けている。

 

オーストラリアでの永住を決めた途端に職を失い無一文になり、ジュンパシフィックが軌道に乗ってからも、検疫との戦いの連続。数々の苦難に負けず、オーストラリアの日本食文化の基盤を築いてきた舟山さんの仕事哲学とは?

1961年のシドニーには日本食レストランが一軒もなかった

最初にシドニーに来たのは1961年のこと。商社の駐在員だったね。

 

海外に行くことがめずらしい時代で、当時のパスポートは鹿革。ジェット機がなかったから、日本から香港、香港からマニラ、マニラからダーウィン、ダーウィンからシドニーとたくさん乗り継いで、到着するまで18時間もかかった。

 

飛行機を降りたら掘っ立て小屋みたいな空港があって、ずいぶん田舎だなぁというのが最初の印象。当時のジョージ・ストリートにあった建物は2階建てばかりで、一番高いのが7階建てのビル。市電が走っていて、操車場がオペラハウスの場所にあって、街に入れ墨をした見慣れない人がたくさん歩いていると思ったらアボリジニ(オーストラリア先住民)だった。当時はまだ街中にたくさんいたんだよ。

 

娯楽はゴルフとお酒ぐらいしかなくて、日本食レストランなんか一軒もない。コーヒーもまだなくて、アイスクリームはバニラだけ。なんでバニラだけなんだ、抹茶を作れって言ってね。それがシドニーの抹茶アイスの始まり。

日本人として初めて永住権を取得

その当時は白豪主義で、3年までのビザしか取れなかった。後ろから蹴飛ばされて、振り向いたらおばあさんに、「お前ジャップか? 私の息子はジャップに殺されたんだ」って言われたこともあった。そのくらい反日感情は強かったね。

 

ビザが切れるころにもう3年駐在することが決まったから、今度は家族を呼んで、それからさらに3年が経ったころに「5年以上の滞在者に永住権取得の資格を与える」という法律に変わった。申請したけど音沙汰なしで、不思議に思ってイミグレーションに電話したら5分で下りたよ。

 

その時に「This is first permanent visa for Japanese」 って言われてね。つまり、日本人の永住権第一号は僕。もう50年以上オーストラリアにいるから、日本に行くときは外国に行くみたいな気分になる(笑)。

「四十にして惑わず」を実感した苦難の時期

商社では紙の輸出入をやっていたけど、ニクソンショックが起きて貨幣が自由化されたら、円安になって儲からなくなった。本社からは日本に戻ってこいと言われたけど、家を買っていたし、こっちで育った中学生の長男と小学生の下の娘が帰るのは嫌だっていうから、オーストラリアに残ることに決めて、会社を辞めた。「俺について来い」の時代だったから、女房も反対せずにいてくれてね。

 

どうせなら自分で商売をやってやろうと思って、商社時代の得意先の担当者と台湾の実業家と3人で紙の商売を始めたの。そうしたら商社のときのボスがメーカーに圧力掛けたもんだから、立ち行かなくなっちゃって、あっという間に一文無し。これが人生で一番苦労した時期だったね。一文無しになったことないでしょう? 家があったから住むところはなんとかなったけど、車にも乗れないんだよ。

 

そのときのクリスマスは一生忘れない。どうにか娘に自転車を買ってやったら、転んで歯を折って血まみれになって帰ってきたの。医者には歯を治すのに10万円って言われたけど、その10万円がなかった。どんなことがあっても娘にはダイヤモンドの歯を入れてやるって、もう心の底から決心してね。そしたら、娘が大人になって結婚した相手が歯医者だった(笑)。人生って滑稽だなぁと思ったよ。

 

昔から「四十にして惑わず」って言うでしょう? これはどういうことかというと、40歳までやっていた仕事、会社を辞めちゃいかんということ。僕の場合は40歳で会社を辞めちゃったから、もう本当に苦労した。

「すき焼き」と「唐辛子」が転機に

日本食品店の東京マートを始めたのは、商社の人間が正月に醤油やそばや餅なんかを日本から送ってもらっていたことがきっかけ。日本人が増えてきているし、食品でもやってみるかってね。

 

最初は全然来なかったお客さんが増えたのは、すき焼きのおかげ。坂本九の「上を向いて歩こう」が「スキヤキソング」なんて言われたでしょう? そしたらこっちの人間が「すき焼きってなんだ?」ってうちに来て、その時教えてあげたのが広がっていったの。その頃すき焼きに使うような薄切り肉は手に入らなかったから、家内が包丁で切って、僕がパック詰めして売ってね。これがヒットした。

 

そしてもうひとつ大きな転機になったのが、唐辛子。ベトナム戦争後に韓国人がオーストラリアに引き上げてきたんだけど、彼らが韓国にいる家族をこっちに呼んだから、急に韓国人がどーっと増えていった。そしたら友達になった韓国人から、「韓国では唐辛子は輸出禁止なんだ。日本から持ってこれないか?」って相談されて、そうして卸売の事業が始まったの。

海苔のために国と戦う

商売が軌道に乗ってからも、大変なことはたくさんあった。例えば海苔の輸入。海苔にはヒ素が含まれているからダメだって、ある日検疫の役人が店の海苔を差し押さえたんだよ。

 

頭にきて、「こんな国に負けてなるものか!」って裁判を起こした。周りの人にはバカだって言われたし、うちの社員も負けると思ったんじゃない? それでも戦ったのは、「俺がやらなかったらだれもやらないぞ」と思ったから。もう意地だよ。

 

裁判では裁判官の髪の毛が黒かったから、「日本人の髪が黒いのは海藻を食べているからだ。カロリーがないから太らないし、だから健康なんだ」と主張したの。そしたら裁判官が「お前は髪の毛ないじゃないか」って言うもんだから、「俺は海藻を食べなかったからこうなったんだ」って答えたら、みんながワーッと笑った。裁判に勝てた要因は、裁判官の心象を良くしたことだろうね。休み時間には弁護士と裁判官と3人で飯食いに行ったりしてさ(笑)。

 

でも、もし海苔が輸入できないままだったら、日本食レストランはこんなに増えなかっただろうね。日本食レストランの初代の人のなかには、「舟山さんのおかげだ」って涙流す人もいるよ。

「法律違反」の一言に食って掛かった

他にも「土曜日の午後と日曜日は店を開けてはいけない」って法律が昔はあってね。無視して土曜日の午後にも店を開けていたら労働省が乗り込んできて、「今日は土曜日だぞ! 法律違反だ! 罰金だ!」って言うから、「土曜日に開かなかったらこの店は潰れるんだ。そうしたら労働省で雇ってくれよ。約束だぞ!」って食って掛かったの。そうしたらイヤな顔して帰っていって、それっきり。労働省で雇ってくれっていうのが効いたのかね?(笑)

 

こんなこと言うバカは僕だけだと思うけど、今となっては「土曜日と日曜日に店を開けてもいい」っていう法律に変わったでしょう? この国は朝令暮改が多いから、変だと思ったことは言わないといけないと思うね。

 

去年「日本食海外普及功労者」として日本の農水省から表彰してもらったときも、チェコスロバキア、フランス、中国の人も受賞したのに日本の国旗しかなくて、役人になんで彼らの国旗がないんだって言ったんだよ。そしたら「言われて初めて気がついた、来年からそうします」って。多分、みんな気がついても遠慮して言わないんだと思うんだよ。僕はズケズケ言うからね。まぁ、嫌われるけどさ(笑)。

工夫と忍耐が、新しい価値を生み出す

今は日本食を販売する店がいろいろ出てきているけど、僕から言わせればマネが多いね。競争は激しいほどいいから、日本食品店が増えるのは大歓迎だけど、マネをしている限りは絶対に先駆者を追い抜くことはできない。自分のアイデアでやらなきゃ。

 

例えば、うちでは年に1回、全店舗で2割引きのセールをやっているけど、これをやる理由は、11カ月間お客さんにお世話になったから。正直儲からないけど、12月だけは赤字でいい。これまでお世話になった分、サービスしようっていう思いでやってる。その哲学を知らずに、ただ単にマネして値引きをしたって意味ないよ。

 

新しいものを生み出すためには、工夫と忍耐が必要。ひとつのことやり続けることだね。商売は「商い(あきない)」っていうくらいだから、飽きちゃだめ。仕事は毎日変化があって、毎日違うからおもしろい。そうやって飽きずにその道を追求していくと、新しい何かが出てくる。うちの買い付けのナンバー1は海苔だけど、検疫と戦ってなかったらこうはなってなかったもんね。そういう意味でも飽きずにやり続けて、新しい価値を生み出すことが成功の秘訣だと思う。

社会の役に立ってこそ仕事、社員を幸福にしてこそ会社

ただし、何をもって成功とするかというと、僕はお金を儲けることではなくて、社会貢献をして初めて成功だと思う。

 

とはいえ、最初からそんな大それた考えでやっていたら、絶対に商売は成功しない。真剣に生きてこそ、初めて国の役に立つ。僕だって商売を始めたのは自分が生きるためだったもの。でもがむしゃらにやっていたら、いつか国が認めてくれるようになった。生きるために働くことが、国や社会の役に立つんだよ。

 

そして会社は、社員のためのもの。社員を幸福にしてこそ初めて会社だと思う。100億円儲けたって、その影で社員が泣いていたら、そんなのは会社じゃない。この間、日本の広告代理店の社員が自殺したけど、あんなの会社じゃないね。

 

うちの社員はみんなハッピーだよ。2013年にオーストラリアから表彰されたときも、去年日本から表彰されたときも、社員は自分のことのように喜んでくれた。社長の梅田なんか涙流して喜んだよ。それなのに、「今度オーストラリアにお墓を買おうか。一番先に俺入るけど」って言ったら、会長と一緒はイヤだって心の中で思っているんだろうね、だれも賛成しなかった(笑)。

日本食だけでなく、世界の食文化を広めたい

今では、お客さんの6割が日本人以外の人たち。フランス料理はソースを食べる、中華料理は火を食べる、日本料理は目で食べるなんて言われるけど、そういう違いがあるだけで、みんな同じ人間で、食べるものも同じ。日本食は日本人のためだけのものじゃないから、外国人に広がるのはいいことだと思う。

 

それに、この国は移民でなっている国でしょう? だから日本食に限らず、いろいろな国の食文化が広まるのは、すごくいいこと。移民の後ろには、必ず食文化がついてくるから、フランス人が来ればフランスの食文化が、インド人が来ればインドの食文化が入ってくるし、それでこそ多民族国家であるオーストラリアの多彩性が出てくる。

 

それなのに、その食文化を検疫が邪魔するのはどういうことなんだろうね。食文化を許さないんだったら移民も許すなって文句を言いたい。この国は検疫がもう少し考えてくれれば、もっと食品の種類が増えるはずなんだけどね。

 

今ではシドニーの他にブリスベン、ゴールドコースト、メルボルン、パースにも支店のフジマートがあって、社員は全部で300人くらいになった。でも、まだまだお店を大きくして、もっと新しい商品を輸入して、もっともっと多くの人に利用してほしい。そうやって、食文化を広めていきたい。

 

これまでの人生で一番大変だった40歳のときも、検疫に苦しめられたときも、一度も後悔したことはないよ。なんとかなると思ったし、「ひとつの窓が閉じれば次の窓が開く」というのが昔からの信念だから。その代わり努力しなくちゃいけないけど、生きている限りは頑張りたいね。

 

 

舟山精二郎(Seijiro Funayama)

日本食品店「東京マート」、「フジマート」を運営する食品商社「ジュンパシフィック」の創業者。1961年に大手商社の駐在員としてシドニーに渡り、66年に永住権を取得。71年に同社を退職し、76年に東京マートをオープンした。40年間日本食の普及に貢献してきた功績が認められ、 2013 年にオーストラリア政府からオーストラリアに貢献した移民の経営者に 与えられる「エスニック・アワード」を受賞し、16年に日本の農林水産省から「日本食海外普及功労者」として表彰を受ける。85歳となる現在も、ジュンパシフィック会長として精力的に仕事に取り組んでいる。

 

 

 

取材・文・撮影:天野夏海(編集部)

この記事をシェアする

概要・お問い合わせ

その他の記事はこちら