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オーストラリアにおける日英同時通訳者の草分け/神代典子さん

日本語の通訳市場がまだ確立されていなかったオーストラリアにおいて、 通訳の草分けとして日英の「会議通訳者」という道を切り開いた神代典子さん。

これまでのキャリアは30年を超え、日豪首脳会談、G20の各種閣僚会議並びにビジネスサミット、日豪経済委員会(AJBCC)など、数々のビジネスや国際政治の現場で日本語と英語の橋渡し役を担った経験を持つ。

これまでの経歴をたどりながら彼女の言葉との関わり方にフォーカスするとともに、子を持つ母親としてバイリンガル子育てとどのように向き合うのか、彼女の考察にも耳を傾けたい。

日本とカナダの両国で語学習得に苦悩した日々

通訳者として仕事を30年ぐらい続けてまいりました。日本で生まれましたが、10歳の時に父の仕事の関係でカナダに引っ越しました。今ですと小さなお子さんでも英会話教室に通っていたりと、英語に親しみがある人も多いと思いますが、当時はそういう時代ではなかったので、本当にいきなり英語環境の中に飛び込んでいくという感じでした。

カナダでは、最初にバンクーバーに滞在して、妹と一緒に英語学級に通い、翌年にはロッキー山脈のふもとに引っ越しました。当時は人口が1万人にも満たない豊かな自然が多く残る町でした。登下校の時に林道を通るのですが、そこには野うさぎが走り回っていたり、キツツキが飛んでいたり、時には熊なんかもでましたから、それまで生活していた東京の杉並とは何もかもが違いました(笑)。

バンクーバーにいた頃には片言しか話せなかった英語も、友達との遊びを通して、自然の流れで身についていきました。田舎町ですし、周りからも「勉強!勉強!」と言われることもなかったので、それで伸び伸びやれたのが結果的によかったのかもしれません。ハイスクール時代はミュージカルなど音楽を中心に、充実した日々を過ごすことができました。

高校2年生の時に日本に帰国して3学期の開始時期に日本の高校に編入しました。しかし、カナダで生活をした6年半の大半は基本的に英語しか話していませんでしたし、日本語の土曜学校などもなかったっので、気がつけば今度は日本語が話せなくなっていて…。編入した学校は帰国子女協力校でしたが、特別なサポートもなく、授業についていくために、自力で日本語を身につけなくてはなりませんでした。

帰国子女というのが大変珍しかった時代です。カナダに行った時は外国人である私がきちんと英語を学べるような受け皿があったのに、生まれた国に戻ってきて、こうやって排除されちゃうのかなぁと、違和感を感じたのを覚えています。

通訳者を目指したきっかけとサイマル・アカデミー

帰国子女が通訳者になる、というのがあまりにも当たり前すぎたので、じつは通訳者だけにはなりたくないと思っていたんです(笑)。英会話を教えたり、東京で外国人モデルを派遣しているエージェントで簡単な通訳と秘書業務などもしましたが、発展性を感じることができず、少し思い悩んでいる時期がありました。そんな時にジャパン・タイムスを読んだ夫が「サイマル・アカデミー*という通訳養成所の広告がでてるよ」と後押しをしてくれて、いろいろなタイミングが重なり、やってみようと決断をしました。
*サイマル・アカデミー:日本初の国際会議通訳集団として設立されたサイマル・インターナショナルが運営する通訳養成所。

当時は通訳養成所でも帰国子女の数が少なく、私の日本語のレベルは他の生徒と比べるとかなり低いものでした。入学面接のときには、ほかの受験生が英語で答えなくてはならないところを、私だけは「日本語で答えてみてください」と言われるような状況でした。クラスではアポロの月面着陸の際に同時通訳をなさった村松増美さんをはじめとする現役通訳の方々から直接指導をしていただき、通訳の技術や政治・経済に纏わる専門用語を勉強をしましたが、私にとって難しかった日本語の言い回しや漢字は自習で身につける努力をしました。

養成所で、通訳者であればいかに英語が上手であろうと、きちんとした日本語が話せないとダメだと言われました。英語圏の人たちは様々なアクセントを聞き慣れているので、少しくらい英語に違いがあっても気にされないのですが、日本人は日本語に対するこだわりが強いので、きちんとした日本語を話せないとクライアントからの信頼を得られないということです。私にとっての課題はここでも日本語でした。

活動拠点をシドニーに移し、日英通訳者の草分けとなる

サイマル・アカデミーを卒業して、約1年後には様々な事情があって、オーストラリアのシドニーに移住することになります。今から30年以上も前のことです。当時はまだ日本人の永住者は少なかったのですが、日豪関係が急速に深まっている時期でした。

ちょうどNSW州と東京都の姉妹提携交渉が始まったころで、鈴木俊一都知事とネヴィル・ランNSW州首相が出席なさった姉妹都市提携の調印式では、ラン首相側の通訳を担当させていただきました。その時に鈴木都知事の通訳者として来豪されていのが、サイマル・インターナショナルの専属通訳者で、後にオーストラリアに移住なさった方です。以降は力のある同時通訳チームを編成できるようにもなりました。その仕事をきっかけに、いろいろと仕事が広がっていったのを覚えています。


石油流出関係の仕事の時に作成した単語帳。海象、気象、海岸沿いの地形、海洋動植物への影響、油回収用の各種機材、油処理剤、各種法律など専門性の高いトピックが話し合われるため、時間をかけて準備をする。

最近ある方が、「神代さんはパイオニアだったよね」と言ってくださいました。その時に、確かに通訳の訓練を受けた日英の通訳者は私が初めてだったかもしれないなと思いましたが、当時の私はそんなことは考えてもおらず、ただただ必死にやっていました。

というのも、日本と違ってオーストラリアでは会議通訳をするための環境が整っていなかったので、まずはクライアントの方たちに会議通訳というものを理解してもらうところから始める必要がありました。例えば、会議の逐次通訳は2人体制、同時通訳は3人体制というのが日本では常識ですが、なぜそれだけの人数を要するのかという説明が必要だったり、そもそも必要な人数の通訳者がなかなか集まらなかったりという問題もありました。

そのような中で幸運だったのが長井鞠子さんとの出会いです。70代でいらっしゃるのにいまだに第一線でご活躍されている通訳者の方ですが、一緒にお仕事をさせてもらう中で、相談に乗ってもらったり、アドバイスをいただいたりして、今の環境を築き上げることができたので、すごく感謝しています。

会議通訳者だからこそ覗くことがきた舞台裏の世界


2014年に安倍総理が訪豪された時の食事会にて

様々な舞台の裏側を覗くことができるのは通訳者の特権かもしれません。政治家はテレビで見ると近寄りがたいような雰囲気がありますが、実際にお会いしてみると、やっぱり生身の人間だということがわかります。

ケビン・ラッド首相が日本の外務大臣とミーティングをされた時に、私はオーストラリア側の通訳として参加したのですが、前室で待機していた時にラッド首相がニコニコしながら「I can speak Japanese」と突然おっしゃって…。その後に笑顔で1から10まで日本語で数えられて、なんてお茶目な人なんだろうと思いました。

小泉首相がご来豪の際、財界の方を交えての夕食会で英語のスピーチをなさいました。その際、食事中の通訳のために隣に座っていた私に、「僕ね、僕が話している間にみんなが食事をやめちゃうの嫌なんです」、「だから、お食事続けてくださいって言いたいんだけど、それって”Please eat up”でいいんですか?」と質問をされました。とてもこなれた英語で、さすが英国留学を経験された方だなと思いましたが、”Eat up”だと全部食べ尽くしてくださいという意味にもなるので、「”Please keep enjoying your meal”はいかがですか?」と提案したところ、「なるほど!」と納得してくださり、その後に10回ほど小声でそのフレーズを練習をされてから舞台にあがってスピーチをなさっていました。

国会議事堂でビショップ外務大臣と日本の民間企業の方たちとの会議通訳をしていた時のことです。当日はスケジュールが押していて、充分な時間がなかったので、私は時間節約のために外務大臣の隣に座って日本語の発言を小声で同時通訳していました。普段から地球環境のためにメモ用紙は両面を使っているのですが、表面がいっぱいになった時に、外務大臣はメモが切れたと思ったらしく、ご自分の目の前にあった紙を差し出してくださりました。

そういったことを数多く経験するうちに、普段は鎧のようにビシッとしたスーツを着てらっしゃる方でも、やはりひとりの人間ですし、弱みもあれば可愛らしいところもあるんだなと気づきます。緊張感の高まる現場で、リーダーシップを発揮しながらバリバリ仕事をされている方たちだからこそ、気配りや思いやりが身に着くこともあるのかもしれません。

「一生懸命」ではなく「一所懸命」な理由とは

もちろん政治家や起業家で成功してらっしゃる方は、多大な努力を積み重ねてそういう立場に到達されているわけですから、おっしゃっていることや立ち振る舞いから、素晴らしいなと感動することはこれまでたくさんありました。

しかし、医療関係者やボランティア活動をされている方の話を聞いて、涙が出るほど感動したことも数多くあります。例えば、AIDSが流行し始めた当時、AIDSの治療法が確立しておらず、感染を恐れる医療関係者が大勢いるなか、自主的に「この病棟で自分は働くんだ」と現場で戦っている看護師の想いには心が動かされました。決して華やかな仕事ではないと思うのですが、そこに使命を感じてやっている人がこんなにもいることを知ると胸が熱くなります。

これまで様々な業界で活躍されている方のお話を聞いてきましたが、ひとつ心に残っているのは「一所懸命」という言葉です。私が「一生懸命」という言葉を使った時に、後で「それは本当は一所懸命なんですよ」という話を聞きました。「人間は一生をかけて懸命になんてなれない。その時、その場所で懸命になることはできるから、それをいっぱいやりなさい」ということを、50代くらいの方が教えてくださったのが印象的でした。「一所懸命」は、特に通訳業のような仕事にはとても大切なことだと思いましたし、今もずっと心に留めています。

バイリンガルとして、バイリンガルの子供を持つ母として

オーストラリアではバイリンガル環境で子育てをされているご家庭も多いと思いますが、私の経験から申しますと頑張りすぎないくらいが丁度よいのかなと思います。私の夫は日本語を話せないので、夫とのやりとりは英語になりますが、2つの言語を話せると世界が広がると身を持って知っていたので、子供たちには常に日本語で話しかけてきました。

例えば、「I’m hungry」と子供が言えば、「はーい、お腹すいたのね」と日本語で返事をします。決して「お腹空いたって言わなきゃダメでしょ!」というように、日本語を強制してはいけないと思うんです。子どもが英語で言ったことを日本語でオウム返しをするだけで、私との会話は自然と日本語になっていきました。3人の子どもは成人していますが、今でも会話は日本語で、英語で話すのはむしろ不自然な感じがしてしまいます。子ども同士もほとんど日本語で話しています。

日本語土曜学校の運営委員長をしていたこともありますが、私が運営委員長なのにも関わらず、私の子供たちの国語の成績は下から数えたほうが断然早かったんです(笑)。それでも、勉強をしなさいと言ったことはほとんどありません。

というのも、私は小学校5年生の時にカナダに引っ越ししたので、それ以降に習う漢字を全然知らなかったのですが、基本的に小学校3年生までの漢字さえ覚えておけば、後は組み合わせていくだけなので、なんとかなることを知っていたんです。ですから小学校2・3年生までは、漢字を覚えられるようサポートしましたが、その後は伸び伸びやることが大切なのかなと思っていました。結果的に、3人の子供は全員何かしらの形で日本と接点のある職についています。

「1+1>2」になる日本語・英語教育を目指して

日本語、英語、それぞれが孤立した能力ではないと思っています。両言語ができることによる相乗効果はすごくあって、例え日本語が0.5で、英語が1だったとしても、相乗効果で2、もしくはそれ以上になるのかもしれません。

子どもたちが12年生の英語の課題で短編小説を書いたことがあったのですが、彼らの文章を読んでいると、日本語の言い回しをそのままうまく英語に訳している部分を発見しました。やはり日本語を学習してきたことによって英語能力も確実に伸びたと思いますし、一つの言語しか話さない子にはないような表現力があるので面白いですね。

メリットはたくさんあるので、ぜひ子供たちに日本語で話しかけて、楽しく学習できる環境を作ってあげてほしいと思います。あまり「勉強させなくちゃ」って頑張りすぎなくても大丈夫なので、優しく見守ってあげてください。

私自身がバイリンガルであることや、3人の子供を育てた母親としての経験を活かし、HSC日本語対策委員会のメンバーとして、NSW州在住の子どもたちのために日本語学習環境を向上させるべく活動をしています。ご関心がある方とは、様々な情報を共有していますし、定期的にセミナーの開催もありますので、一度ウェブサイトをご覧になってみてください。

HSC日本語委員会
https://www.hscjapanese.org.au

これからの展望と未来の通訳業について

まずは通訳の仕事はなるべく長く続けたいと思っています。ある同僚が「私、いつ辞めたらいいのかしら」と言ったのに対し、他の同僚が「大丈夫。そのうち仕事がこなくなるから」と返したのを聞いて、あぁそれも一理あるなと(笑)。今のペースで仕事をするのが難しくなってきたら、仕事の種類と量を調整しながら続けていきたいと思います。

はじめは「通訳だけにはなりたくない」なんて言ってましたが、通訳の仕事を始めてからは、様々な世界を垣間見ることができて、すごく幸運だなと思うようになりました。政治や経済に関わる著名な方からボランティア活動をされている方まで、通訳者として様々な分野の方とお仕事をさせていただきましたが、みなさん誇りを持ってプロとして仕事をされていますし、そういった方の考えていらっしゃることを他の人に伝えていくというのは、とても光栄なことだと思います。

最近では、急速なテクノロジーの発展で、翻訳や通訳の仕事がなくなるという報道もありますが、心情的な部分や言葉の温かみなどは人間である私たちにしか伝えられないという時代がまだしばらくは続くのではないかと思います。バイリンガルの方には通訳者という仕事もぜひ視野に入れていただきたいと思いますが、通訳だけでなく別のスキルも併せ持つことが今後は大切なのではないかと思います。今までも大学などで通訳を教えたことがありますが、今後は現場で通訳者の育成に関わることができれば嬉しく思います。同時に自分のスキルアップも怠らないようにしつつできるだけ長くこの仕事を続けたいと思っています。

神代典子プロフィール

会議通訳者。父親の仕事の関係で10歳から6年半カナダで生活し、日本に帰国後、時をおいて通訳養成所のサイマル・アカデミーにて専門的なトレーニングを受けてプロの通訳者となる。卒業後はオーストラリア・シドニーに拠点を移し、そこから現在に至るまで通訳者として約30年に渡るキャリアを積む。通訳者としての顔のほか、バイリンガルの子供を持つ母親としての経験を活かし、HSC日本語対策委員会のメンバーとして、幼児からハイスクール生までの日本語学習環境の向上に取り組む。

取材:德田 直大、村上紗英

 

連載『Talk Lounge』の過去記事一覧はこちら
>>https://www.jams.tv/author/jams_talk_loungeをクリック

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