20110312
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被災者の子どもたちのホームステイ・プロジェクト

被災者の子どもたちのホームステイ・プロジェクト

JAMS利用者の皆様へ

Sydney Rainbow Stay Projectをご存知ですか?

 

今回の震災・津波・原発問題で心身ともにストレスを抱える福島県の中高生を対象に、

シドニーの有志が集まり、シドニーの日本語家庭でホームステイをしてもらい、

心と体の休養をしてもらうことを目的として、Sydney Rainbow Stay Projectがはじまりました。

第1回の日程は、日本の学校の夏休みの期間(8月8日シドニー着、8月17日帰国の9日間)を

予定しています。引率の方も含めて、旅費等の経費を募金活動とチャリティーオークション

によって集めたいと思っています。

そこで、このプロジェクトを皆様に知っていただき、ご協力を戴けましたら誠に幸いと存じます。

募金の詳細につきましては、こちらのウェブサイトを覧ください。

https://sites.google.com/site/rainbowstaysyaney/make-donations

尚、シドニーでの振り込みの際は、Description欄にStayと明記してください。

どうぞ、宜しくお願い申し上げます。

 

当ホームステイプログラムの第1回目の参加予定の福島の子どもたちの作文を

この場をおかりして発表させていただきます。

震災発生から今日に至るまで、こどもたちの貴重な原体験の一部を

JAMS利用者のみなさまとシェアさせていただくことが、

今なお、終息の見えない被災地での生活を余儀なくされる福島の方々への

支援につながるものと信じております。

<ぼくたちわたしたちの福島>  (小学6年男子)

 

ぼくが住む福島と日本、そして世界とのつながりをここまで強く感じた事は、正直、あの日まで一度もなかった。

 

あの日、三月十一日は、ぼくが書いた作文が表彰される日だった。今から表彰式が始まるという時に大地しんが起こった。すぐに体育館に逃げたが、窓ガラスが割れ、余しんが何度もきてとてもこわかった。友達はすぐに家の人が迎えに来たが、ぼくは誰も迎えに来てくれなくてとても不安だった。ぼくの家はどうなっただろうかと心配していた時、やっと見覚えのある顔が見えた。それはじいちゃんだった。ほっとしたけれど、帰り道、へいや屋根がこわれ、信号機が消えた町の様子を見て、お母さん達のことが心配になってきた。家に帰ってもドーンとつきあげるような地しんが続いた。お母さん達に電話をしてもつながらず、そのうちに水や電気も使えなくなった。夜、じいちゃんの布団に入ったがなかなか眠れなかった。お母さんは次の日の朝に、お父さんは次の日の夜中にやっと帰ってきた。

お母さんの学校は海岸沿いにあり、三百人もの人達がひ難してきたそうだ。お父さんは原発から三キロの高校で働いていた。お父さんは地しんの日から子ども達をひ難させたり、家族と会える場所まで送ったりして忙しく、家に連絡するひまもなかったらしい。家に帰ってからも、夜中に電話が鳴り響く日が何日も何日も続いた。原発がばく発して、親せきの人からひ難するように何度も電話がかかってきた。ぼくの家でも、じいちゃん達とぼくだけでも、車に残っているガソリンで行ける所まで逃げようという話になった。見えない放射能がこわかったからだ。でも結局、こんな時こそ家族で一緒にいる事をぼくは選んだ。

あの日から、生活は大きく変わった。学校では外遊び、体育、水泳、運動会ができなくなった。長袖、水筒、マスクの生活はとてもきゅうくつだ。学校では少しの事でもけんかになったり、けがをする人が多くなった。

今では世界の共通語になった福島。でも福島は情の深い良い所だ。この間お父さんの実家に行くと、近所の人が自分達も大変なのに、ぼく達のために食べ物を分けてくれた。会津に住んだ人は気候の厳しさに泣き、人情の深さに泣き、去る時に別れ難くて泣く「会津三泣き」という言葉があるくらい情が深い。人も植物も厳しい環境を経験してこそ大きく実ると聞いたことがある。今福島は、多くの人が大切な家族や家を失った大変な時だ。そんな福島のために日本中からたくさんの救えん物資が届けられた。がれきを運んだり、行方不明者をさがしたり、原発を安定させるために今も自衛隊や、世界の国々が知恵を出し合い、世界中が福島を応援してくれている。ぼく達は応援してくれた人達への感謝を忘れず、生かされた命を一生懸命生きなければならない。早く元気な福島に戻れることを信じて。

 

 

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