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死んだらそれでおしまいなのか

気になるニュースがありました。正月から死体の話で恐縮ですが、三が日も過ぎましたし、ご容赦ください。

亡くなったオーストラリア人が司法解剖され、解剖処理に不満を持った故人のパートナーと友人が訴えた話です。

亡くなった人はゲイでHIV感染者でした。自殺だったのですが、死因に不明なところがあって検死にまわされ、解剖されることになったのです。

通常、解剖された遺体は元通りに整復(修復)されて遺族の元に帰されます。ところがこのケースでは解剖されたままで、元に戻してくれませんでした。そこで怒ったパートナーと友人が訴えたというわけです。

ニュー・サウス・ウェールズ州の法律では、感染症にかかっている遺体の場合は整復しなくても構わないとされています。申立人は、HIVはほかのウイルスによる病気のような伝染病ではないとし、これはゲイに対する差別だと訴えました。

反差別法では、障害や性による差別を禁止しています。そこでこの訴えがどうなったかというと、控訴審で裁判長は、「(事件が発生した2007年)当時の反差別法はあくまでも差別に苦しむ人を守るための法律であって、人間ではない死体に対しては適用されない」という論理で、訴えを却下しました。

具体的なこのケースの場合の争点がどうなっていたか仔細に調べてはいませんが、大いに気になる点は、「死体は人間ではない」ということです。

死んでしまった以上、法的に人間として扱うわけにもいかず、差別を受けたという時点で「he was not a "person"」ということですから、そもそも反差別法の適用は受けませんというのです。

そりゃぁ、そうでしょう。死んでしまった以上、法的な人権回復措置は適用にならないという考え方は、一応理解はできます。でも、なんだかしっくりこないのです。

このことは、大げさにいうと西欧の心身二元論に端を発する西欧哲学、西欧合理主義の思想が関係していると思います。精神とその容れ物としての身体とは別物だという考え方です。主体と客体の主客二元論ともいいます。これは心身一如の東洋思想、仏教思想には相容れない考え方です。

つまり、「死体には礼儀をもって接し、解剖後の縫合にあたっては復元・整復を心がけ、その他の処理においても細心の注意を払う」ということが求められているにも関わらず、死体は既に人間ではないと切って捨てるような考え方には同意できないのです。

日本の死体解剖保存法では、死体に対する尊厳を最大限尊重した内容になっていて、学術や研究のためと称して、意のままに死体や臓器を扱うことを厳に戒めています。それこそ粗末に扱ったりすると、「死体損壊等罪」に問われる可能性すらあります。

これは西洋と東洋の考え方の違いでしょうか?

解剖後、整復しなくてもよいという規定があれば、たまたま医者が人種差別の持ち主で、黒人やアジア人やアボリジニの人たちが解剖後そのまま放り出されたとしたら、それでも差別ではないと言いくるめられる可能性があるということになってしまいます。

もちろん西洋にも死者を敬い弔う考え方はありますし、敬意を払って扱うのが普通でしょうが、たとえ法律上の解釈にしても、死体は人間ではないという一刀両断の論理には承服しがたいものがあります。

お盆の習慣など、古来、死者に対して礼を持って接してきた私たちにとっては、なんだか腑に落ちないニュースだと思いました。

(水越)

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