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茶道と日本文化と和敬清寂のこころ

中学時代に茶道部に所属していたこともあり、オーストラリアのいわゆる「Matcha」ではない、ただただ苦くて濃い抹茶が飲みたくなる時があります。

家でいつでも抹茶が飲めるようにと、日本にいる親友に頼んで、抹茶をしゃかしゃかする茶筅(ちゃせん)とお椀を数年前に誕生日プレゼントとしてもらいました。それからは定期的に自分で抹茶を点てています。飲むだけではなく、抹茶を点てる時の独特な静かさと繊細さが好きで、とても落ち着きます。

©️GOKAN

粉とお湯の量、お湯とお椀の温度、自分の力加減などを微調整しないと、うまく点てられないのが抹茶です。逆にいえば、おいしい抹茶を点てるには、そのシンプルなプロセスを経て、バランスよく最低限の条件を満たせば、最高のクオリティが付いてくるというわけです。そのプロセスに無駄なことはひとつもありません。

考えてみたら、その繊細さは日本文化ならではなのではないかと思います。昔から自然に寄り添う日本の生活は、無駄なものをできるだけ排除し、どれだけシンプルかつ少ないプロセスで「美しく」みせるかなのではないでしょうか。

茶道の場合、最小の所作でお客さんに最大限のもてなしをします。そして所作をシンプルにすることで、見えてくるものがあると思います。

和敬清寂のこころ

©️nippon.com

茶道部の部室であった作法室には「和敬清寂(わけいせいじゃく)」と書かれた掛物がありました。

「和敬清寂」とはもともとは禅の言葉ですが、茶道においても重要な言葉とされていて、

=調和、分かち合う心

=お互いを敬う心

=清らかな心、身体、道具

=動じない心

という意味です。

和敬清寂の言葉は、その最大限のもてなしをするために無駄なものを引き算をした結果。

これはもてなす主人だけではなく、お客さん同士にも当てはまります。お客さん同士でも分かち合い、お互いを敬い合うように接する。

みんながより良い時間を過ごすためだけなので、無駄なことはひとつもありません。またすべての動作をできるだけシンプルにすることで、和敬清寂の心をさらに感じることができ、心が安らぎます。

そう考えると、茶道って一種のリラクゼーションですね。

最近大学の大量のアサイメントやらなんやらで、いろいろなことに追われているので、久しぶりに抹茶を点てて心を落ち着かせたいです…。

 

文:浜登夏海

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